豊臣秀次居館

別名-  付近住所 滋賀県近江八幡市宮内町 現在 八幡公園
2009/7/20 案内板アリ


豊臣秀次 山麓居館部分
 八幡山城を特徴づけるのが、山頂城郭部分とは分離して築かれた南山麓の居館群で、谷地形の中央部分、標高約130メートルの地点から雛壇状に築かれています。秀次館跡は、その雛壇状の居館部分の最上部に位置します。ほぼ中央に巨大な内枡型の虎口が設けてあり、その両側は、西側で二段、東側では四段の高石垣を構えています。(尚、当時の史料や絵図が残っていないことから、それぞれの屋敷地に誰が居を構えていたかというような詳細は判明しておりません。)
 これまでの調査の中で、秀次館に関連した大型の礎石立建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、流路状遺構などの遺構を確認することができました。この際、秀次館の建物に葺かれていたと考えられる金箔瓦を含む、瓦類が大量の出土し、その中に秀次の馬印である沢瀉(オモダカ)紋の鬼瓦が確認できたことから、この地点に秀次館本隊が存在していたという確証を得ることができました。
 大型の礎石立建物は、部分的な発掘によるもので、全体としての規模は判明していませんが、柱間が約2メートルになるもので、礎石の配置状況から書院造りの御殿ではなかったかと考えられます。

 豊臣秀次(1568年〜1595年)
永禄11年(1568年) 豊臣秀吉の姉の子として生れる
天正09年(1581年) 羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀次と名乗る
天正13年(1585年) 18才で近江国43万石を与えられ、八幡山城を築城し、城下町八幡を開く

-秀次のまちづくり-
「八幡山下町掟書」 楽市楽座を定め、有力な商人や職人を呼び寄せ、自由商業都市とした
「町割」 基盤目状の通りをつくり、職種別に住む地域を分けた
      また、下街道(のちの朝鮮人街道)をこの町割に引き込み、陸上交通の要衝とした
「八幡堀」 城の堀としてだけでなく、琵琶湖につながる運河として湖上交通の要衝とした

天正18年(1590年) 尾張・北伊勢100万石を与えられ、尾張清洲城にうつる 八幡山城には京極高次が入る
天正19年(1591年)秀吉の実子(鶴松)が病死し秀吉が隠居すると、後を継いで豊臣秀次と名乗り関白となる
文禄02年(1593年) 秀吉の実子(秀頼)が生まれる
文禄04年(1595年) 謀反の罪を着せられ高野山に追放、自害を命ぜられる 享年28才